神と人との間で…オオカミのつぶやき

ユダヤの魂を持った、クリスチャン

レフ・レハー

今週の朗読

パラーシャー:創世記 12:1-17:27
ハフタラ:イザヤ書40:27-41:16
ブリットハダシャ:ヘブライ人への手紙11:8-11:23
 
 
「主はアブラムに言われた。
『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい』(創世記12:1)
 
このような主の言葉から始まる、今週のトーラーポーション*1
ここから、聖書の本当の物語が始まる。
 

 

今までの朗読は地球と人類の創造、その過程での人類の歩んだ歴史を語った物語であった。
 
しかし、聖書の本質は「救い」であり、
その「救い」を地上において成就させるのはイスラエルであるので、
主が指名したイスラエルの歩んだ歴史を語ることによって、主の成し得ようとしているビジョンが初めて、理解できるわけである。
 
今後はアブラハムの神の召命に始まり、アブラハム〜イサク〜ヤコブと12人の息子、及びその親戚筋との間に繰り広げられるドラマを中心とした展開が、創世記のメインテーマとなってくる。
イスラエル 及び その親戚筋に当たるであろう民族(アラビア人等)の歴史が、ここから出てくる。
 
「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、それぞれの民族の歴史も、擬人化して眺めた時に、その性質がハッキリと反映されてくる。
それを鮮明に示してくれるのが、正にトーラー最初の書「創世記」なのである。
 
しかし、驚かされるのは、アブラハムの信仰の強さ。
 
アブラムが生まれ育ったとされる当時のウルは、今で言うニューヨークやパリ、東京等に匹敵する大都会であったという。
 
となれば・・・我々にはとても無理な話だ。
やはり、愛着がある生まれ故郷を離れるのは誰でも嫌がるし、故郷でなくとも何でも揃っており、しかもこの世の享楽が全て享受できる大都会から離れるのは正直、億劫であるはずなのだ。
例え、大都会でなくったとしても、家も家族もあって、それなりに生活も安定してるわけだから、今まで培った生活の基盤を壊してまで、しかも75歳という老年になって、一からやり直すだなんて、余計に気が引けるだろうし、嫌であろう。
 
誰だって、そう判断するに違いない。
 
しかし、アブラムは違った。
彼は「主の導きのままに」移動を開始したのだ。
家族と、財産を共に携えて。
しかも行き先をも知らない、今まで話にも聞いたことがなかったであろう土地、「カナン」という土地へ。
 
ウルでの生活は、直接トーラーでは語っていない。
なので彼と彼の家族がどういう生活をしていたのかわからないのだが、ユダヤの伝説(アガダー)にはその生活、様子が記されている。
 
アブラハムの父テラは偶像(まあ、神々の像というべきか)を作って商売していた偶像商人であったと、ユダヤの伝説は伝えている。
また、ヨシュア記にはこうある。
イスラエルの神、主はこう言われた。『あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた。ヨシュア記24:2)
 
アガダーによる伝承は、ざっとまとめると以下の通り。
アブラムは天の万象を拝み、神々の鋳像に供え物を捧げることが常識だった時代に、唯一の神の存在を理解していた。
父テラの商売を手伝った時にも、客の前で客を怒らせ、激情した客にわざと鋳像を壊させたり、また神殿の見張りを頼まれた際には、供え物を神々の鋳像の前に置いて、その後わざと鋳像を壊し、父には「目の前で神々が供え物の事で口論になり乱闘したので、このようになりました」と言ったりしたので、父から叱られたりしている
 
んまあ・・・とすると、当時の常識からしたら、大した度胸である。
もしかしたらアブラムは、父が神々を売っていた商人の家に生まれ、そういう環境にいたからこそ、唯一の神を認識させられたのかもしれない、とも取れる。
 
この度胸があったからこそ、年老いていたのにもかかわらず、神からのお願い事にすんなりと応じ得たのだろう。
アブラムには目に見えない信仰があったということだ。
 
今日のシャバットで朗読されたブリットハダシャ「ヘブライ人への手紙」11章全体、信仰の本質を語っている箇所なのだが、そこでアブラハムの信仰を例に、以下のように述べている。
 
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」ヘブライ人への手紙11:13-16)
 
まさに信仰だけを頼りに動いたのである。
 
ウルで70年近く、心身共に潤っていたであろう生活していたのにもかかわらず、満ち足りず、どこかで天の故郷をどこかで望んでいたのであろうか。
 
そう、地上生涯は「仮住まい」・・・つまり「仮庵」に住んでいるようなもの、俗世間自体が荒野のようであり、それを通過して初めて天の故郷へ凱旋するのであろう。
地上生涯は、あっという間なのである。
それをアブラムは、目には見えない信仰によって、このことを理解していたに違いないのだ。
 
しかし、ユダヤ教の観点は若干違うようで、伝統的には、単に精神的な旅立ちというより、「実際の大地を足で踏むことを求めた旅立ち」という理解が主流のようだ。
しかし、別の視点だと、このような解釈もある。
「アブラハムの旅は・・・むしろ精神的真理を求めての航海の始まりである。それは全聖書の歴史の中心テーマをなすべき探求」(E・A・スピーサー著 アンカー・バイブル・シリーズ「創世記」より)
それは現在まで続くディアスポラによって生じる、本当の真理を追い求めての旅立ちであろうか。
 
あと、ヘブライ語聖書の最後の書は「マラキ書」ではなく「歴代誌」なのだが、歴代誌の最後にはこう記されている。
あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように(歴代誌下36:23)
 
このように、ユダヤ人は、最初にアブラハムが神の召命を受けたと同じように、約束の地(・・・この章ではエルサレムの神殿)へ再び上ることで、これこそが神からのメッセージであり、聖書が完結されていると理解しているのである。
 
なるほど、地上での祝福を何より大事にするユダヤ教思想と、キリスト教思想では意味合いが違う。
しかし、住み慣れた安定した土地を離れ、目には見えないが信仰だけを頼りに、祝福に向けての第一歩を踏み出したという点では、共通している。
 
私もこの「天の故郷」に対する渇望はあるし、理解できる。
私自身、実は実際の生まれ故郷にはあまり未練が無い・・・というより、あまり思い出したくないというほうが正であるのだが。
実際の故郷探し、ないし安住の地を求めていくのは、どこかで主を追い求めているからなのであろうか。
もしくは、来るべき時に備えてのことであろうか。
 
それは今は解らないが、主は私に何かを語りかけているのであろうか、
それに無意識にしたがっているのかもしれない。
 
しかし、アブラハムが主の言葉に無心に従った結果、祝福がこれである。
わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」 
(創世記12:2-3)
 
実際、アブラハムの直系の子孫であるイスラエル民族(ユダヤ人)、アラブ民族が出てきた。
そのユダヤ人もアラブ人も今日、大いなる民になった。 
 
また精神的にも多くの子孫を得た。
彼の信仰はユダヤ教のみならず、そこをベースとして、キリスト教イスラム教も生まれ、霊的にアブラハムに繋がるものとして結ばれている。
 
主の約束通り、名実共にアブラハムは「多くの国民の父」となったのである。
 
その後、アブラムは「アブラハム」と呼ばれるようになる。(創世記17:5)
主に素直なまでに従い通したからであろう。
 
しかし、単に従い通しているだけでもないようで、
ソドムという悪徳の街を滅ぼす際、アブラハムは主と対等に交渉していたりする(創世記18:16-33)
 
アブラハムが「神の友」イザヤ書41:8、歴代誌下20:7)と言われる所以である。
聖書中、主の僕は幾人かいれど、主の友はアブラハムだけである。
 
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ところで、このシャバットは月に一回のペースで、沖縄で集会しています。
今週は沖縄からの司式でした。
 
今回は沖縄での仮庵祭を並行して行っていたせいなのか、仮庵とアブラハムの祝福が結びつきやすかったのでしょうかね。
 
先生は沖縄集会の日は、聖書朗読を一部省略して朗読しすることが多いです。
メイン集会の東京シャバットでは、先生不在となるため当然、パンとワインの祝祷とアロンの祝福は省略されます。
 
私たちのシャバットの詳細はこちらです。
日本メシアニック親交会  http://www.bekkoame.ne.jp/~jmf-oej/
 

*1:(※)portion【英語】「割り当て」「部分」