神と人との間で…オオカミのつぶやき

ユダヤの魂を持った、クリスチャン

ヴァエラー

今週の朗読
パラーシャー:出エジプト記10:1-13:16
ハフタラ:エレミヤ書46:13-28
ブリットハダシャ:エフェソの信徒への手紙2:11-22

モーセは主から召命された。
それと同時に、兄であるアロンも同時に召命された。

「現れた」「仰せになった」という意味を持つ今週のトーラーポーション

アロンとモーセ兄弟は主から仰せられた通りイスラエルの民を救う事を任じられ、いよいよファラオとの交渉にあたる。 

 

早速、モーセとアロンはファラオの王宮へ行き、こう切り出した。

イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。」
 
これを聞いてファラオはプライドが傷つけられ、おそらくカッとなったであろう。
この交渉後すぐ、今まで以上に負荷を重くするという暴虐に出た
今まで以上にイスラエルの立場はより苦境に立たされた。
 
余りにも無茶すぎる要求にイスラエルの民がファラオに論理的に筋を通して無理です、と陳情している出エジプト記5:15-16)
 
ファラオはそれに答えるかわりに、彼らを酷く打ち懲らし、公の場で辱めた。
このような状況下において、ファラオにとって論理の入る余地などないのだ。
暴力こそは非情の論理である。
 
だが、イスラエルの怒りや不満の矛先はモーセ兄弟に向けられてしまう。
お前たちが介入してこなければ更にパワハラを受けることなく平和が続いたのに、こんな余計なことをしあがって…!という心情である。
出エジプト記5:20-21)
上を責めるより、身近な存在であるモーセとアロンを責めた方が安易である。人間というのは常に身近な存在に不平不満をぶつけるものだ。
 
モーセは民の嘆願に堪え、傷付き、自分が使命を完遂する自信がなくなり諦めそうになったのだろう、主に訴えている。
「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。 
わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」 
出エジプト記5:22-23)
 
その時、主はモーセに現れて、自由への道は遠く、かつ障害に満ちており、近道などはないと語りかける
 
自由とは、抑圧された民衆が蜂起したら一夜にして得られるというような安易なものではない。
生活やパワハラに苦しむ民衆というものは、自分達が抑圧されているという事実を受け入れることすら欲しない。
 
そのことも、主は十分存じていたのだろう。
それを踏まえたうえでモーセに語っている。
 「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。
(中略)
わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。
 
更に主は続ける
わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う
そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。
 
主のこのメッセージに表された「贖い」というものは、ただ一度きりの出来事ではない。
それは4つの異なる動詞、即ち導き出す」「救う」「贖う」「するに表されているように、4段階をもって進行される行為なのである。
 
この4つの贖いの段階をよく見てみると、それらの段階が適切な順序であることにビックリする。
これは現代社会でも十分に通用するような、普遍的な行為であるのだ。
 
最初の「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し」は、神はあなた方(イスラエルの民)の自覚を高めて、奴隷である事自体が耐え難い事であり、自分はこの状況から抜け出さなければならない事を悟らせる、という意味である。
 
それが忍耐の限度を超えて、この状況は我慢できないと認識して初めて、第二段階である「奴隷の身分から救い」となる。
第二段階は実際の奴隷からの救いである。
 
このように、自分の置かれてる立場を認識するという心の自由が、実際的な自由に先立つ必須条件である。
 
自由であることを認識している人は、無条件に他人のためにピトムやラメセス*1を建てるのに自分を消耗することはしない。
自らの努力は自らの必要性に捧げられるのである。
そのため、主は「彼らを奴隷の身分から救う」と約束するのである。
 
次に第三段階「腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」が続く。
心身ともに自由となり、誇りに満ちるようになり、経済的にも自立できるようになって、この段階で「主に救われたのだ」と実感するようになる。
 
そしてこれらを潜り抜けた後、最後の第四段階「わたしはあなたたちをわたしの民とし」という、ここで最終目的である、主の民になることができるのである。
 
このように、何らかの軛から抜け出すのは時間がかかるのだが、確実に主の民になる…即ち主に到達することができる。
 
現実、足枷からすぐには解き放たれない。
家庭内暴力、会社での不当な仕打ち、学校でのいじめ、見知らぬ人からのストーカーなど、身の回りを見回したらキリがない。
それぞれ自身の立場を「自覚」し、そこから実際抜け出す。
それでも相手は執拗についてくるかもしれない。
でも一旦抜け出したら、そのあとのトラウマから抜け出すには時間がかかる。
トラウマからも抜け出し、それを忘れ生活を築き、心に平安がくるのは、時間を要する。
 
私自身の体験であるが、幼少の頃、育った家庭内での虐待が凄かった。
小学校入るまで長らく自閉症で、かつ生まれつき皮膚病を患っていた。
そのせいか学校に入ってもなかなか馴染めず、周囲のいじめは凄く、さらに輪をかけるように家に帰っても嫌味を言われ抑圧され、それはもう、居場所がなかった。
大人になりいろいろあって信仰に目覚め、ようやくと言うべきか、だんだん「逃げ出すべきだ」と悟りだした・・・!
受洗した後、「就職」という名のもと、ようやく抜け出すことができた。
しかし、それからの道のりが長かった。
せっかく独り立ちしても、生活を確立させなければならず、なかなか自由に自分のための勉強などできない。
しかも容赦なく降りかかってくるサタンの足枷は続く。
急な転勤、その中で友人と称する人に騙されズタズタにされ続け、そして会社をリストラされ、就職も決まらないまま底辺での生活・・・ああ、実家の方が良かった、ともぼやきたくもなったことが何度もあった。
そういう中で、メシアニック信仰に巡り合うことができた。
ここでようやく本当の信仰に導かれつつある。
本当にここまで導いてくださった主、そして主からの油注ぎを受けて導いてくれた先生には、感謝しています。。
 
このように「出エジプト」、いわば苦しい現状からな脱出は、チャンスがきて脱出できても、それからの道のりが長く険しい。
本当に苦しいので、脱出前の暮らしが楽ではないかと錯覚すら思えてしまう。
自由への道は遠い。決して楽なものではない。
さらに贖われ、そして主の御旨に到達するのは長く、忍耐を要する。
 
キリスト教会(特にプロテスタント系)の説教でもよく出エジプト記は取り上げられ、現実の足枷・・・すなわちサタンの軛から開放され、イエシュアによって信仰に導かれ、それでも俗世界の「荒野」で修業を行い、ついに天の御国へ到達するという風になぞられる。
 
トーラーは決してどこかのお伽話、夢物語のように、奇跡が起こって救われたからって、すぐに楽園が来るとは語っていない
むしろ現実は奇跡が起こり、贖われて後の現実の生活、積み重ねが大事であるとトーラーは語っているのである。
それは今後のトーラー、出エジプト記以降〜申命記に至るまでの記録が鮮明に語っている。
 
今後のトーラーは、正にこの主の御言葉通りの4段階のプロセスを踏んだ、主なる神とイスラエル12部族との贖いへの体験記を中心に展開していき、また主がイスラエルへ向けられた霊的な処方箋を授けていく様子が描かれていく。
 
そして主の選びの民イスラエルが体験してきた記録と、また伝授された処方箋は、そのまま異邦人である全人類へ向けられた、主からのメッセージとなって、私達へ語りかけている
 
これこそがイスラエルから発するところの「祝福の源」なのである。
そして、奴隷にされた俗世間の象徴であるエジプトからの脱出、贖いにより、主の約束は成就へ向かうべく発信を始めていく

*1:下エジプト、ナイルデルタ地方東部、ゴシェンの地に建設されたエジプト人のための町。意味は「ラー神の創造した者」を意味するラーメスのギリシア語表記。当時のエジプトで人気の名前であったらしく、人名や町名に頻繁に使用された。なお、第19王朝のラメセス2世は別人。