神と人との間で…オオカミのつぶやき

ユダヤの魂を持った、クリスチャン

ヴァイェッツェー

今週の朗読

パラーシャー:創世記 28:10-32:3
ハフタラ:ホセア書12:13-14:10
ブリットハダシャ:ローマ人への手紙9:1-29
 
今週のトーラーは、兄エサウの殺意から逃れて、一人で故郷を離れることになったヤコブがハランへ「出発した」ところから始まる。
 
途中で一泊野宿した時に見た夢が、今後のヤコブをより強めることになっていく。

 

ヤコブの梯子

祝福を相続した後、両親の勧めでハランへ一時滞在することが決まった。

旅路の途中、ヤコブは野原で一晩過ごした。
親元を離れて、一人での野宿は初めての体験であり、心細かったであろう。
 
その時みた夢が、天まで達する梯子が地に向かって伸びていて、主の御使いたちが行き来していた夢だった(創世記28:12)
 
この夢に関してもいろんな見解があるので、ここでは先生の見解と私自身の見解に留めて置くことにする。
先生のメッセージは以下の通りであった。
 
天から梯子が降りてきたということは、天から天使たちが下ってきて、地上にいる人々を地上で起こっているあらゆる災害や迫害から救うと述べていた。
レフ・レハーでも述べたが、この地上は殺伐とした、いわば「仮の住まい」であるので、地上の災害から救済する人々を天へ運ぶための梯子なのだそうだ。
 
救いの手を主御自身が我々に差し伸べてくれる、なのである。
その「差し伸べてくれる」役割をヤコブに託しているということになる。
 
私は昔から、天へ向かう梯子は、神と地上とを仲介し結びつける役割、いわば祭司的役割だと捉えていた。
 
カトリック出身である私は「教会は天上と地上とを結びつける機関、いわば梯子のようなもので、司祭はその仲介」と教会学校でよく教えられたものだ。
イエシュアの代理である司祭が、天と仲介して、我々に「秘跡」という形で祝福を与える、ということだ。
今ではこの「仲介」的役割が「教会」ではなく、「イスラエル」であるとはっきり理解しているのだが。
 
置換神学で祝福の源泉が「教会」と教えられてきたとはいえ、実体験として「橋渡し」であるというのを、長年カトリックで実感させられてきている。
なので、いつの日かイスラエル(厳密には息子のレビ)が祭司として復活した時には、これこそが「ヤコブの梯子」である事を身を持ってかなり納得できるだろう。
 
主はこの時点でヤコブに、聖なる御方が座す天上と、これまた神が造られた地上との「橋渡し」になるように指示していたかのように感じる。
祝福がヤコブから全世界へ広げるための前触れとして、このような夢を見させられたのだろうか。
 
ウェスレアンとカトリシズムの見解の違いこそあれ、共通した見解は「天から梯子が伸びてきた」ということであり、決して地上側(人間側)から梯子を伸ばしたわけではないということ
 
天から伸ばした梯子は「救いの手」または「祝福の授与」であるが、地上側から伸ばした梯子は単に「奢り」でしかない。
バベルの塔が典型例であり、皆で1つになり天に達しようとした結果バラバラになってしまい、本来の目的とは逆の結果となってしまった。
 
人間はどんなに腕力や知力、財力を駆使して頑張って天へ上がろうとしても無理なものは無理であり、人間の能力では天へ登ることはできないのだ。
 
第一、サタンの最終目標が「雲の頂きに登って、いと高き方のようになろう」イザヤ書14:14)なのである。
 
現代社会も、住民の命顧みずにどこぞの国のいいなりになって戦争へ駆り立てようとする政治家や、安月給で従業員を「24時間働け」と言いつつ自分はボロ儲 けしてる経営者、学歴至上主義で人格を学歴だけで判断するような権威主義者、その権威にどっぷり座し威張ってる教授や評論家・・・例をあげればキリがない。
このように「いと高き方のようになろう」としている方々は非常に多い。
 
しかし、天から下される啓示や恩寵でないと、決して主の祝福とはいわないし、実感はできない
 
話をトーラーへ戻そう。
神に出会ったヤコブは大変畏れ、誓願を立てたと同時にこれから見知らぬ土地へ行くということで心細かったところを主ご自身により励まされ、勇気づけられた。
 
それと同様、ヤコブの末裔であるユダヤ人も長い迫害の中で厳しい苦しみを何度も味わい、石を枕にするような日々を送りながら、それでもいつの日か祝福がくると信じ勇気づけられたに違いない。
ユダヤ人は先祖ヤコブのDNAをしっかり引き継いでいる。 
 

ヤコブの家族

ヤコブはその後ハランにて、伯父ラバンの下に約20年、羊飼いとして生活することになった。
そこで着実に財産を蓄え、ラバンの娘2人を娶り家庭を持ち、11人の息子と1人の娘をもうける(※1)
 
そしてこのヤコブの家族と息子達こそアブラハムの祝福の後継者と確定し、全世界の救いの基となるのである。
しかし、この家族の成り立ちも、結構いろいろあったのだ。
 
ヤコブは、ラバンの次女ラケルを一目で愛した。
そこでラバンの下で羊飼いとして7年働くことになる。
 
だが、約束の7年目の終了する日、舅ラバンは結婚式を催すが次女ラケルではなく、長女レアを与えてしまった。
当時の結婚式では女性は顔が見えないようにベールで覆うのが普通なので朝になるまで気付かず、しかも初夜を共にしたということになるのだが・・・。
 
これにヤコブはびっくり仰天、騙されたという気分になったのであろう。
伯父は即座にラケルも嫁として嫁がせるものの、その時再び7年羊飼いの契約更新をさせられる。
 
ラバンの下で羊飼いを7年働きながら、妻レアは長男ルベンを出産。
その後シメオン、レビ、ユダを次々と出産する。
もう一人の妻ラケルも自分の召使ビルハをヤコブに与え、ダンとナフタリを出産。
そうするとレアも負けじと自分の召使ジルパをヤコブに与え、ガドとアシェルを出産。
レアは再びイサカル、ゼブルン、ディナを出産する。
ラケルもようやく息子ヨセフを出産する*1
 
こうしてヤコブは4人の妻から息子11人、娘1人をもうけた(※1)
ヤコブファミリーは大家族になったのだ。
 
それにしても複数の妻・・・?しかも4人って、現在の倫理概念で捉えたらどう考えても常識外れであり「模範的な家庭」とは言い難い。
それに加え、妻の召使であるビルハとジルパも妻となっており、4名息子をもうけている。
 
だが、当時のメソポタミアでは複数の妻を持つことが当たり前だったのであろう。
しかも妻に子供ができない場合は、妻自身の召使に「代理出産」をさせ自分の子と登録することができた。召使は主人には絶対だったからだ。
これはアブラハムの妻サラ、召使ハガルと同じケースである。

benjamin052.hatenablog.com

社会規定、法律というのは、その時の社会の流れや経済情勢により常に変化する、水の如しなのである。
「一人の夫に複数の妻を持つこと」が即、罪というわけでは決してないのだ。
これは「sin」と「crime」の違いなのか。
 
しかし、普通は「全世界の救いのため聖なる働きをする息子たち」の起源がこういう家庭環境であったということは記せないはずだ。というより「記したくない、みっともない」のが本音だろう。
大抵、世界各地の神話や英雄伝なんかは、こういう影の部分には触れず、見栄張っていいとこばかり書こうとする
ギリシア神話やイギリス・ウェールズアーサー王伝説などは、その典型例である。
 
それらの華々しい神話や叙事詩とは違い、坦々と事実をありのままに赤裸々な部分まで隠さず書くところが聖書であり、そこが聖書の持つ慎ましさでもある
 
ヤコブの12人の息子たちはそのまま「イスラエル12部族」の祖となり、今後、主から全世界の救いのための聖なる勤めを命じられ、それを果たすこととなる
イスラエル12部族にはいろんなキャラクターがあり、祝福もそれぞれ細分化されキャラクターに沿っている。
その背後には息子たちの、そして息子たちそれぞれの4人の母親像があったのである。
 
神の選びは絶対、第三者からみてどんな様であろうが、変わることはないのだ(ローマ人への手紙9) 

*1:ヤコブの末息子ベニヤミンはヤコブファミリーが故郷カナンへ帰省後、ラケルにより出産