神と人との間で…オオカミのつぶやき

ユダヤの魂を持った、クリスチャン

トルドット

今週の朗読

パラーシャー:創世記 25:19-28-9
ハフタラ:マラキ書1:1-2:7
ブリットハダシャ:ローマ人への手紙11:1-11:36
 
「系図」から始まる、今週のトーラー朗読
イサク夫妻が結婚して20年後、いよいよ双子の息子が誕生する。
双子の息子により、アブラハム伝来の契約はいよいよ具体的に継承されていくこととなる。
 
イスラエルの誕生である。
 

 イサクとリベカ夫妻には子供がいなかったので、主に祈ったら、なんと、双子を妊娠していた。

生まれてきたのは、双子の兄エサウ、弟ヤコブ。
 
エサウは獲物を得る狩人になった。そして父に愛された。
一方、ヤコブは天幕の周りで仕事をした。そして母に愛された。
 
イサクがエサウを愛したのは、狩りの獲物が好物も去ることながら、エサウのような行動的で勇ましい姿が、内気な父からしたら立派に見えたんだと思える。自分には持っていない憧れや理想像を重ね重ね、わが息子に投影したんだろうか。
逆にリベカがエサウよりヤコブを愛したのは、妊娠時に聞いた主の御告げ
二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。(創世記25:23)
この、主の言葉がリベカの中に、常に心にあったからではなかろうか。
聡明なリベカのことだから、出産、育児を通し、2人の息子が成長するに従って、あの言葉通り、主の御心は弟にあるんだ・・・と確信したに違いない。
 
結果は弟ヤコブが祝福の継承者となる
父イサクとしては兄エサウを祝福したいけど、主の計らいであろうか、ヤコブに与えてしまうという顛末になってしまった。
しかし常識で考えたら、長子のエサウに与えると誰がも考えるだろうし、物語の展開上誰でもそう思うのが自然だ。家父長制の社会だとそれが当たり前の習慣なのである。
しかし、「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(サムエル記上16:7)」と語る聖なる御方の目線で見たら、御心にかなったのは弟ヤコブなのである。
では、それは何故なのか?

ある時、エサウがお腹をすかせて猟から帰ってきたとき、ヤコブはレンズ豆の煮物を作ってたので、エサウがヤコブに懇願した。

「お願いだ、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」(創世記25:30)

ヤコブも交換条件として「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」(創世記25:31)

エサウ「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と言って、それを即譲り、そして好きなだけ飲み食いした後、立ち去った。

長子の権利などどうでもよい
このようしてエサウは、長子の権利を軽んじた(創世記25:34)のである。

彼からしたら目の前の欲望が大事で、永遠の世界などどうでもよかった。

エサウの基準は「今、空腹である」ということで、直接目に見えず、理解が困難で難しい神の世界なんかより、目の前にあるレンズ豆の煮物が彼にとっては最重要なわけで、これを本能で思ったわけである。だからこそ「どうでもいい」わけである。

これは、何を基準にして生きるか、何を求めているのか、という人生観に関わることで、極めて重要なことである。

エサウの基準は、ある意味で多くの人々と同じ発想で、腹が満たされて快適であれば今が幸福だ、と考えて毎日を過ごしている。

ということは、エサウは霊的なものを全く解さない、現実的思考の持ち主であっただろう、と思う。

だからこそ、ヤコブに祝福を授与したのちにエサウが帰ってきて祝福をもらおうとすると、もう既に祝福はヤコブのものとなっており、「わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」と悲嘆な叫びをあげ、声を上げて泣いてしまった。

普段は全く霊的なことなんて理解もしないし、どうでもいいといって軽んじたくせに、いざ祝福が相続できないのを知ると、そこで初めて事の重大さに気付いた顛末。

要は何もしないで「幸福」になる権利を、膨大な幸福を相続しかねたということになる。

「アブラハム伝来の永遠の契約」もエサウから見れば、地球全体が自分のものになり、自由気ままにコントロールできる、という間違った見方、解釈をしていただろう。俗的な「利権」と捉えていたような気がする。

エサウは「自分が長男なんだから、いずれ相続されるんだ」と慢心に思っていた節を感じてしまう。だから、何をやってもいいだろう、という思惑が見え隠れするのだ。

そもそも霊的な祝福より、食べ物を優先したということからして、無意識にではあるが神に対する反逆心、神に対する軽蔑があったのだと思える。

そのことはマラキ書やヘブライ人への手紙にも後世、記述されている。

わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ(マラキ書1:2-3)

一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさいヘブライ人への手紙12:16)

上記の通り、エサウは主の目から見たら、長子の権利(霊的な祝福)を軽蔑した俗悪な者なのである。

だからこそ、心で見る主はそのことを存じていたので、見えないものに対しての憧れが強い、夢見る人ヤコブに祝福を相続させたのではなかろうか

エサウが相続人では、せっかくの祝福がニムロドのように悪用されると察したからだろう。

だからエサウからしたら「利権」が手に入れられなかったのを根に持って弟を恨むわけである。

食べ物だけではない。
女性関係でも両親の悩みの種となったとある(創世記26:34)
祖父アブラハムの頃から、現地の女性は道徳レベルが低く、主が疎んじていたくらい酷いので避けていたのにもかかわらず、エサウはヘト人、ヒビ人の娘を娶ったとある。
おそらくエサウは向こう見ずな性格であっただろうから、本能のままに恋してアタックして、娶ったのだろう。しかも2人。

トーラーはそこまで語っていないが、エサウは中身で見たのではなく、外見の美しさや性的魅力だけで判断したんだと思える。

当時のカナンでは他の文明社会同様、けばけばしい宗教行事が盛んで、日夜神殿売春や幼児生贄が行われていたと民数記ヨシュア記等に記されているので、おそらくだが現地の女性も服装や化粧が派手で、性的魅力満載だったんだろうと思わされる。

そういう女性を娶ったエサウは、やはり主の目から見たら祝福の後継者としては相応しくないと判断したんだろう。

主の御旨は実現されたのである。

 
人間誰にでもある食欲と性欲
食欲と性欲に関してはコントロールが効きにくい。
しかし、人間社会を動かす要素でもある一方、時として悪に偏り、激しく表現することすらある。
そこがサタンが突っ込みやすい部分でもあるのだ。
ていうのも、人間社会はアダム以来、食欲と性欲が高まり、それが発展して金銭欲や支配欲になっていった結果、幾多の争いや憎しみが絶えず、お互い虎視眈々として戦争にまで発展するからだ。
それは現在社会でも変わらない。
 
ユダヤの口伝律法であるタルムードには「人は食事しているときとセックスしているとき、要は人が見ていないところでも聖であることが本当の聖である」と説いている。
それだけ、食欲と性欲は人間の根底の部分である。
現実しか見えないと、食欲と性欲だけで価値判断をしがちである。
さっきエサウは現実しか見えないと語ったが、現実しか見えない人はそうそう金銭(利権)には目敏い。
霊的なことはかなりピントがずれるが、彼は政治や軍事、駆け引きとかになると、非常に頭が働くであろう。
というか、そういう角度でしか物事を判断できないんだろうと思う。
祈りや芸術で訴えようとするヤコブとは対照的である。
 
そもそもエサウは狩人(猟師、ハンター)が職業である。
考えてみれば、世界的支配者となったニムロドももともとは狩人で、狩人から支配層になった。
狩人の仕事内容は、獲物を殺して、血を流して、そして肉を獲る。
そんな職業に就いている人の価値観から見たら、抽象的なことは金にならないから無駄とか言って馬鹿にしそうである。ハンターは主から見たらシャロームな職業ではないのかもしれない。
現在社会でも「図書館や伝統芸能は多額の税金の無駄遣い」だとか言って、むやみやたらに文化的活動を徹底的に廃止するバカ政治家がいるが、この人もニムロドやエサウと心理は同じであろう。
 
どちらにしろ、ここでアブラハム契約はたった一つであるということが判明した。
その契約が膨大な故に、光と影・・・即ち「祝福」と「呪い」が存在するということ。
そして皮肉なのは、イサクの代になって、双子エサウとヤコブがこの世に生を受けたこと。
似てる部分もあるが、それが光と影として反映された。
「祝福」か「呪い」、どちらかしかない。
アブラハム契約とは、これほどまでに強力な契約なのである。
 
皮肉なのだが、このシャバットもエサウとヤコブが同居しています。
まさしく契約のもつ光と影の部分、光があるところには、影ができるということなのでしょう。
15時30分過ぎたら、そのことを類似体験できます。