主は突如、アブラハムに現れこう告げた。そして、長年住み慣れた都会ウルを出発した。
「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(創世記12:2)
では一体、この祝福はどういう内容で、現代ユダヤ教以外(キリスト教等)でも効力はあるのか。
アブラハムに託した、契約の全容を要約すると、以下のようになる。
- アブラハムを祝福する人を神は祝福する
- アブラハムを呪う者を神は呪う
- 世界のすべての民族はアブラハムを通して祝福される
- アブラハムの子孫を豊かに増やし繁栄させる
- アブラハムから王となる者が出る
箇条書きに解りやすく記したが、これは膨大な、世界的な規模での契約内容である。
この内容は主からの確固たる祝福であり、別の語句に言い換えれば、まさしく「霊的な富」なのだ。
「霊的な富」は唯一の主の源泉であり、その効力は現在も、未来も有効である。
数ある世界の祝福の中で、本当の祝福はアブラハムに端に発した祝福だけであり、他の「祝福」という名のものは勝手に祝福と言っているだけで、まるで蜃気楼のようなものであり、幻に過ぎない。
この霊的な富は、アブラハムの子孫に沿って、今日に至るまで続いている。
もちろんアブラハムから出た子孫すべて〜イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、イェシュア*1、そして現代ユダヤ人にも、この内容は十分当てはまる。
アブラハム以降、ヤコブ、モーセ、ダビデ、イェシュアにより付加されたり更新されてはいるので、モーセ契約・ダビデ契約・イエシュアの福音もすべて「アブラハム契約」のうちに入ると思っていい。
だが、祝福の原則そのものはアブラハムの時代5000年前から変わっていない。
日本や中国の歴史より古いのだ。
発端はナザレのイエシュア観で、一人のラビか、待望のメシアかの見解の違いから分離し、その後キリスト教はヘレニズム*2化し、更にゲルマンやケルト等の土着文化と融合していったということは過去にも触れた。
一般のユダヤ教サイド(メシアニックは別)ではイエシュアをメシアと認めていないのは周知の事実なので、ここでは割愛する。
一方、ヘレニズム化したキリスト教会は「置換神学」という神学を採択して、これを教会の正統な神学と据えている。
「置換神学(英:replacement theology)」とは、簡単に言えば「教会がイスラエルの立場、アブラハム契約を引き継いだ」ということ。
要するに、神のご計画の中で、イエシュアをメシアと認めなかったイスラエルは五旬節(使徒言行録2)以降、もう神の選民ではなくなり単なる異邦人に降格したので、その役割を「新しいイスラエル」である教会に引き継がれた・・・と教えている。
更にトーラーを中心とした教えや文言は「旧い契約」と位置づけ、イエシュアが到来してからの「新しい契約」のみが有効であるという見解が、時代とともに比例してキリスト神学の中心となっていったのである。
この神学の支持者によれば、ユダヤ人はイエシュアを拒絶した時点で呪われた民族となり、もはやイスラエルの国の未来について、神は特別な計画を持っておられないと信じているのだ。
この思想が大部分のキリスト教会を反ユダヤにさせている要素のひとつとなっている。
更に5世紀のアウグスチヌス*3、クリュソストモス*4ら教父達によって確立された神学により、強力なバックアップができたことで、より強化されたのである。
このように置換神学が中心のキリスト教会は、主の祝福の源泉は、主イエスに任命された使徒より継承するべき「聖なる普遍の教会」しかないと主張し確立され、今日に至る。
5世紀に確立した二ケア・コンスタンティノープル条項(信仰宣言)でもしっかり記されているので、クリスチャンなら誰でも解るだろう。
しかし、これでは本末転倒である。
本来、キリスト教会はイスラエルを励ますためのものであり、イスラエルから教えを学び、支えて共に祝福に入るというのが本来あるべき姿である。
使徒パウロはいう
「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」(ローマ人への手紙11:17-18)
ここで言う「野生のオリーブ」は異邦人で、「折り取られた枝」はユダヤ人を指しており、「根」はアブラハムから続く族長たち、「養分」は祝福である。
パウロは祝福はユダヤ人から離れていないと確信していた。(ローマ人への手紙9:1-5)
ユダヤ人が躓いただけで、この躓きにより、異邦人が主の祝福を受けられるようになっただけであり、それでも異邦人は本流ではないと説いている。
その状態は異邦人が完成される時が来るまで(ローマ11:25-27)、ユダヤ人は霊的に覆いを被せられている(コリントⅡ3:14-16)だけなのだ。
キリスト教で最も重要な教えはイエシュアの十字架による贖罪で、これがわれらの救いであることが大前提である。
しかし、単に新約聖書だけ読んで、イエシュアの十字架を理解しただけでは不十分であり、新約聖書の根底であるトーラーを理解し、それも基にしてイエシュアの救いを捉え理解し、信仰も持たないと、アブラハムを通して流れてくる本当の祝福、本質は到底理解できない。
イスラエルを抜きにしてイエシュアの十字架を語ると、どうしてもその基礎が哲学的になり、本来の救いの本筋から外れてしまう。
教会が授ける秘跡、あるいは新約聖書のみの理解だけ・・・では救いの本質は理解できるはずがないのだ。
あくまで本流は今でもユダヤ人であり、イスラエル(ユダヤ人)を通してしか祝福は来ない。
イエシュアも神の御子とは言えど、表向きはユダヤ人の家庭*5で生を受け、トーラーの勉強をしているという事実、弟子から「ラビ」と呼ばれていた事実を忘れてはならない。
アブラハム契約は、そしてトーラーは、現在も、これからも、永遠に有効なのである。
キリスト教会、われわれクリスチャンは、イスラエル(ユダヤ人)のサポートにまわるべき役割を主から任命されている。
置換神学から来る反ユダヤでは、どんなにミサや告解に参加してようが、どんなに新約聖書を読みバイブルスタディを毎日実行していようが、本来の祝福は遠ざかってしまう。
このような国際情勢や些細な問題であっても、まず政治的イデオロギーの前に聖書、とりわけトーラーの観点から見ていかないといかない。
本当の祝福を知ろうとするのなら、イスラエルの持つ霊的役割を理解し、その上でイスラエルのために祈ることである。
そこには政治的イデオロギーや人々の思惑も超えた、何か大事なものがあると感じさせてくれる。
それらを毎週土曜日のシャバットで学び、イスラエルのために祈ると同時に、主であるイエシュアに祈っている。