今週の朗読
パラーシャー:創世記 37:1-40:23
ハフタラ:アモス書2:6-3:8
ブリットハダシャ:ローマ人への手紙9:19-33
ヤコブは、長年の放浪と艱難と争いの末、ようやく故郷カナンの地へ戻った。
いまやヤコブは満ち足りており、尊敬されている。
兄エサウでさえ、弟を敵に回すより隣人として接したほうが得であると心得ている。
家業である羊飼いは既に息子達に引き継がれている。
ヤコブは、過ぎ去った若き日の夢に思いを耽る毎日を送る静かな生活に戻った。
しかし思いがけないところから生活が一変する。
ヤコブの愛息子、ヨセフだ。
今日のトーラーから約3週間に渡り朗読される、創世記37章〜48章まではヤコブの息子、ヨセフとその家族の物語、いわゆる「ヨセフ物語」である。
聖書中、1番感動する名シーンが数々出てくる。
が!
これを単なる「創世神話」「物語」で済まされる内容ではない。済ませてはならない。
ヨセフこそはヤコブの息子、イスラエル12人の息子から発生する12部族の長子なのであるからだ(歴代誌上5:1-2)。
ヨセフとその家族
ヨセフの生い立ち、家庭環境を見てみよう。
ヤコブからしたら年寄り子であった、とトーラーには記されている(創世記37:3)。
実際、ヨセフは父ヤコブがハランを出ようとしてする時に生まれている(創世記30:25)。
年寄り子であっただけでない。何しろ、最愛の妻ラケルとの一人息子なのである。
ヤコブのヨセフに対する偏愛は相当だったであろう。
解りやすく言えば、「依怙贔屓(えこひいき)」といったところか。
母ラケルも待望の一人息子であるが故に、溺愛して育てた可能性は十分にあり得る。
何はともあれ、父と母の愛情を一身に受けて、ヨセフは成長した。
両親に愛されて育った子であることを物語る箇所が、トーラーにある。
「兄たちのことを父に告げ口した」ことだ。(創世記37:2)
両親の愛情を受けて育った子供によくありがちなのだが、ヨセフからしたら良かれと思って善意から告げ口したのであろう。
常に「いい子」でいようとするヨセフの心理をズバリ突いている。
が、このヨセフの行為が反って兄たちを傷つけた。
それと、晴れ着*1をヨセフだけもらったりしているのを目のあたりにして
兄たちが穏やかに話すこともできなくなったのは当然の成り行きだったと思われる(創世記37:4)。
ヨセフが17歳になったある日、10人の兄たちは殺してしまおうと相談する(創世記37:19)。
兄たちにとってはヨセフは嫉妬の対象でしかなかったのである。
そこまで、兄たちの妬みは凄いものであった。
そんな中、一番上の兄ルベンは命まで取るのを止そうとし、一先ずは穴に投げ込むことを提案する。
ルベンは後でそっと来て、ヨセフを救おうと考えていたのだ。
が、ルベンがいない隙に、ヨセフを穴から引き上げ、銀20枚でイシュマエル人のキャラバン隊へ売り払ってしまう。
兄ユダが、殺しても何も得にならんので、それよりイシュマエル人へ売ろうと提案したからだ。
こうしてヨセフは一人、故郷を離れてエジプトへ奴隷として売られていくことになる。
その後、兄たちはヨセフの晴れ着をヤギの血に浸し、それを父に届けることにより、ヨセフは「獣に噛み殺された」こととなってしまった(創世記37:31-33)。
以上ここまで、ヨセフと10人の兄たちとの間の不和、呵責を物語っている。
注意してトーラーを読んでたら、ここにはヨセフの弟ベニヤミンはここには登場していない。
ヨセフから見てベニヤミンは唯一の「弟」であり、しかも事件当時はまだ3歳にも満たない幼児だったであろうから、当然といえば当然である。
今後、ヤコブの息子達からイスラエル12部族が形成されてゆくのだが、兄弟の不和はここの段階で始まっていると見てもよい。
イスラエルはその後、歴史の上でも争いと団結を繰り返し、サウル〜ダビデ〜ソロモンによる統一王朝の後、ついには南北に国が2つになる。
そして、ついにアッシリアに滅ぼされ、捕虜として連れて行かれ、それ以降は行方不明である。
一方の南王朝のユダとベニヤミンも、バビロニアに滅ぼされ捕囚の身となるものの、その中で信仰に目覚め、トーラーやあらゆる伝承、北王朝での聖文書を保持していくこととなる。
後に彼らは「ユダヤ人」として世界に離散し、今日に至るのである。
今回の主人公、ヨセフは後に北王朝に属し、しかもその北王朝でリーダー的役割であった。
となればヨセフおよび9部族はアッシリア捕囚以来、世界史の表舞台には一度も姿を現さないままであり、現在に至るまでヨセフは行方不明になっているのだ。
しかし、イスラエル兄弟は一致団結して、神と人とを繋ぐという崇高な使命を与えられている。
特に長子であるヨセフがいない現代イスラエルでは、祝福は不完全であるといえる。
現代イスラエルの直面している問題は、他の地方でも起こっているような、単なる領土問題や人権問題では片付けられるものではない。
カナン人やペリシテ人等先住民から続く因縁、イシュマエル(イスラム)との対立、またアメリカやイギリス、ロシアといったローマ帝国の末裔たちが複雑に絡み合い、泥沼化し、ユダヤ人は世界の嫌われ者のままなのだ。
この状態であるからこそ、失われたヨセフのような存在が必要ではないのか。
エゼキエルは語る
「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。 (中略)
わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった」
(エゼキエル書37:4-8)
しかし現在でも「その中に霊はない」状態が続いている。
次の段階である「四方から霊を吹ききたり、非常に大きな集団(エゼキエル書37:9-10)」となるのは今後のイスラエル、世界の動きを見ていくしかない。
やはり数多くの預言書が語る通り、ヨセフが帰還しない限り、今のイスラエルでは不完全のままであろう。
そうなるためにも、ユダヤ人はこの事をしっかりと把握して、ヨセフ達の帰還を主に祈り、また悔い改めないといけない。
ヨセフの夢
ヨセフが兄たちに妬まれた原因は父の依怙贔屓だけが原因ではなかった。
それはヨセフが「夢見る人」であったことだ。
ヨセフは少年時代に2つの夢を見て、それを兄たちに語っている。
「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」
(創世記37:7)
これを聞いて、兄たちが穏やかでいられるはずはない。
兄たちがヨセフにひれ伏すというのだから…!
そしてもう一つは
「太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです」
(創世記37:9)
兄たちは当然妬んだのだろうが、父ヤコブは自分の真の後継者をヨセフに見出したのではないか(創世記37:11)。
父のヨセフへの偏愛の原因はそこにもあるように思える。
父ヤコブも若い頃、夢見る人であったことを思い出す。
その「夢」をヨセフが見事に継承した。
もしかしたら、このヨセフの夢は全世界的な夢だったかもしれない。
父の見た夢である天と地を繋ぐ梯子に、息子の見た夢である強固な「地」を用意したのだ。
梯子が天に届くには、堅い地上に立ったものでなければならない。
浮ついた気持ち、上辺だけの信仰では、到底梯子は立たないということを物語っている。
その後ヨセフはエジプトの地で奴隷となり、主人の妻に濡れ衣を着せられ牢屋に入れられるが、そこでも2人の服役者の夢を解き明かし、能力を発揮する(創世記40)。
ヨセフの兄弟たち(弟ベニヤミンは除く)は、普通の、健康な、実際的な牧夫であったので、最初はヨセフの夢が受け入れ難く、信じられなかったのかもしれない。
ヤコブの夢が適うのはまだ数年はかかるかもしれない。
しかし終わりの日が、主の日が近づきつつある現在、私達はヤコブの夢、そしてヨセフの帰還を祈ることである。
これこそが主の御旨であり、実現されるべき祝福なのだから。