神と人との間で…オオカミのつぶやき

ユダヤの魂を持った、クリスチャン

ヴァイェラ

今週の朗読

パラーシャー:創世記 18:1-22:24
ハフタラ:列王記 下4:1-4:37
ブリットハダシャ:ヘブライ人への手紙11:8-11:22
 
今週も先週に引き継ぎ、アブラハムについて触れる。
 
なんせ、神がアブラハムに約束した祝福は膨大なのである。
では、アブラハムの祝福の原動力とは一体、何か。
 
前週のトーラー箇所「レフ・レハー」でも、アブラハムの信仰の強さには圧倒されたのだが、今週の朗読では、それをさらに超える信仰の強さが垣間見える。
 どんな客でももてなす姿勢
アブラハムはある日、日向ぼっこをしていたら、3人の人が目の前に立っていたので、急いで自分のテントに招き休ませ、最上の料理でもてなした。
 
その3人の人、実は主の御使いであり、その折、後継者であろう息子の誕生を告げている。(創世記18:10)
 
そうなると、たまたま通りかかった旅人だと思って、アブラハムは一休みするよう声をかけただけかもしれないが、蓋を開けてみたら主の御使いをもてなしていた、という結果になっている。
 
最近、流行語にもなった程、我々日本人には当たり前の事であり、どんなに忙しくとも客を手厚くもてなすのが目に見えぬ習慣となっている。
茶文化はその精神から生まれた文化であるし、年賀状や会社の接待も一種のおもてなし文化であるのだ。
 
客をもてなすことはトーラーでは非常に大事な事とされ、例えどんな客であったとしても、その行為は美徳とされている。
 
「おもてなし」…これは日常の生活において考えさせられることではなかろうか。
 
有名人や経営者、教授や牧師とかの金持ちや肩書がある人だと自らいそいそと下手に出ていき、プレゼントまで用意し、上座に座らせ、手厚く大事にもてなす。
 
しかし、無名だったり派遣や貧乏人、学歴がない人だった場合は、ろくなもてなしをせずに無視する。
それどころか形式的にはもてなすフリをするものの上から目線になったり、最悪は邪険にしたりするケースすら見受けられる。
 
よく眺めてみたら、日常よく起こっていることであり、我々もふと、やってしまいそうな行為なのである
 
後世、イエシュア(イエス)も、同じ事を語っている。
 
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイ福音書25:40)
これは「わたし(=この最も小さい者の一人)が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(マタイ福音書25:35-36)結果、永遠の祝福を受け継ぐ、とイエシュアは諭している。
 
また逆に
「わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった」結果「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったこと」であり、永遠の罰を受けるとも言っている。(マタイ福音書25:42-45)
 
どんなに小さなことでも、人の見ていないことでも、神はしっかりと見ておられる。
 
一人息子でさえ神に捧げようとした一貫して主の命令に聞き従った信頼
この箇所で語られている「一人息子を主に捧げる」
昔から論争になってきているし、キリスト教ではイエス(イエシュア)が十字架の刑に架かり、3日後に蘇るという予型であるといわれている。
 
しかし、息子ですら生け贄として捧げものとして捧げようとする行為は、普通に考えたら、並大抵の事ではない。
 
アブラハム自身は、神は何でもお出来になるお方であるから、どこかのタイミングでイサクを必ず復活させてくださると思っていたのかもしれない
何しろ、約束の跡取りであり、また、主の祝福の後継者でもあると主と約束されているわけだから。
 
そう確信するアブラハムは、見上げた強い信仰である。
 
ところで、ここではアブラハムの信仰ばかりがクローズアップされているのだが、父アブラハムだけが信仰を試されたのではなく、父に捧げられかけた息子イサクもまた神に信仰を試されたのではないのか
 
よーく考えてみたら父に生け贄として「殺される」わけで、主の命令とは言え、息子の心はもはや尋常ではなかったのだろう。
はじめは父の言う通り、神が用意してくださると言う言葉を信じ、奇跡を期待したに違いない。
 
しかし、父から「主に捧げるから、ここへ」と言われた時、果たしてイサクの心境は…ひょっとしたら、即座に死を覚悟したと思う。
一瞬、死を見たのかもしれない。
「自分は生け贄になるために生まれてきたのか」とも思ったのだろう。
 
しかし、次の瞬間、主は御使いを通して、止めに入った。
息子イサクは生け贄にならずに済んだ!
 
それどころか、息子は主の祝福をさらに増して受ける事となった。
主は父にも子にも、信仰ゆえに祝福を増したのだ。
 
その後のイサクの生涯は静かな、まるで余生を過ごしているのかのような、父ほど過激で、波瀾万丈な生涯は送っていない。
おそらくこの時の父との体験が全生涯、影響してるのかもしれない
 
しかし、やはりアブラハムの信仰には脱帽させられる。
 
もし自己義認だけの信仰ならば、ここまでの行為には出られない、いや、出れないかもしれない。
自分でもそこまで言い切れる自信がない。
 
これは信仰によってのみ自覚する事項なので、そこを理解するのは難しいのだが。
アブラハム自身も理解できなかったであろう。
というより、主の前で謙虚な方であっただろうと思うので、奢ることなかったのであろうけれど。
 
もし何かのタイミングで主の奥義を理解してしまって、それについて鼻にかけるようになり始めると、霊的に高慢になってしまう。 
 
高慢な心を、何より主は嫌煙される。