神と人との間で…オオカミのつぶやき

ユダヤの魂を持った、クリスチャン

ヴァイシュラッハ

今週の朗読

パラーシャー:創世記 32:4-36:43
ハフタラ:オバデヤ書1:1-2:7
ブリットハダシャ:ローマ人への手紙9:1-33
 
「遣わす」という意味を持つヴァイシュラッハ
今日のトーラーポーションは祝福を横取りしたヤコブが、怨念に駆られたエサウから逃げるようにハランへ行き、家族を率いてカナンへ戻ってきた後、兄に面会するために遣いを「遣わす」ところからはじまる。
 
いよいよ、20年ぶりに兄エサウに再会する時が来たのだ。

エサウとの再会

故郷に帰省したヤコブには課題があった。
まず、兄エサウと面会しないといけない。
故郷に住むということは、嫌でも隣人とならざるを得ないからだ。しかも肉親である。
いつまでもビビって逃げまくってばかりいては前へ進まないのは解っていた。
 
しかし考えたら、エサウの怨念はかなり深い。
特に世界をも動かしかねる「祝福」という相続権を逃した怨みは恐ろしく、鋭く、消し去ることは難しく、ちょっとやそっとでは忘れるものではないのである。
 
双子の弟であるヤコブは、そのことを十分に解っていた。
あの時母リベカと策略を計り、アブラハムの祝福を横取りした事に罪を感じてて、良心の呵責があったのであろう。
 
そこを怨念を抱いて殺そうとしているエサウからどうやって守り、宥めようか、そして今後どうやって付き合っていくにはどうしたらいいか・・・というのが、今週のトーラーの重点である。
 
ヤコブが召使をエサウのところへ遣わし、帰ってきた時の答えは以下の通り。
兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」と報告した(創世記32:7)
 
な、なんと、400名のお供?!
この報告にヤコブは非常に恐れた(創世記32:8)
 
400名のお供とは、ズバリ400名の軍勢のことを指す。
 
エサウもやはりカナンで子宝に恵まれ、財産を築き、もはや故郷では手狭となりセイル地方へ家族ごと移動しているので血族のほかに、それなりの召使や弟子はいたはずである。
しかも、弓の扱い方から獲物の捉え方、敵(獲物となりうる獣や動物)からの攻撃の交し方、万が一ライオンや蠍などに襲われることを想定しての対処法など、それなりの訓練を普段から召使や弟子たちに施しているはずである。
エサウの生業はハンターである)
 
400名のお供を連れて面会するということは、エサウはその軍勢を以って弟に迎え撃つつもりでいたのだ。
その目的はたった1つ、弟を抹殺することであった
 
だからこそ、ヤコブはすぐに察した。
自分は殺されるのかもしれない・・・と。
 
普通に考えたら人一人、しかも肉親との面会に、こんな人数の「お供」はいらないはずだからだ。
 
ヤコブは才覚をフルに使用し、細かな準備、それに至るまでのすべての過程での緻密な計画、ヤコブの使いが万が一の場合に備えての下工作をなした。
僕たちや家畜を2組に分け、プレゼントを選び、それを3段階に分けて、ヤコブ達より先に行かせたりと、余念がない。
 
そして、必死になって主に祈る。
ひょっとしたら、自分は命が危ないかもしれない。危機的状況である。
 
「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。
わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。
どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。
あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」
(創世記32:10-13)
 
ディアスポラ以来約2000年間、ユダヤ人は生きていくために、しばし敵意に満ちた支配者や市民と話をしなければならない状況に陥る場面に出くわしている。
それは現在社会になっても、ちっとも変わらない。
その答えを先祖ヤコブも経験した、仲違いをしている兄との再会の中に自分の置かれている立場を重ねて見出してきた。
それぞれの世代の「エサウ」と対面する苦境の中で、このトーラーの箇所をヒントにしてきたのである。
 
ユダヤ人でなくとも、普段の日常生活の中でも、嫌だけど・・・話をしていかないと先へ進まないので、決死の覚悟を持って対面する状況に陥ることはたびたびある
それは同僚だったり、親兄弟だったり、喧嘩している相手であったりといろいろなケースがある。
この危機的状況を無事乗り越えるには、ヤコブのように知恵やテクニックを使って、リスクを回避し、被害を最小限にする。これは誰がもそう思うであろう。
 
しかし、それとプラスアルファで大事なことがある。
それは「主に拠り頼む」ことである
 

ヤコブと神との格闘

あくる日にエサウと会おうとしていた真夜中、ヤコブは何者かと夜明けまで格闘した。
トーラーのこの部分だけ読んでいたら、十分に休息しないで大丈夫なのか?!と心配になってしまう。
しかし、ただの格闘ではない。
霊的な、そしてヤコブにとっては重要な格闘だったのである。
 
「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。
(創世記32:25-30)
 
実は、その人は神ご自身なのである
ヤコブは「祝福してくださるまでは離しません」と言っていたということは、その相手が神であると判っていたのかもしれない。
 
何故ヤコブは、神と格闘したのか。
怨念を持っている実の兄と再会せねばならないと思った時に苦しんで、どうしたらいいのか解らなくなった時に、血の滲むような思いで神に祈ったからなのだ
 
「格闘」ないし「相撲」とは、ズバリ祈りそのものなのである
神と真剣に「向き合い」、血の滲むような気持ちで、必死に、そしてあらゆる事に用意周到に準備し死ぬ覚悟の上で「取っ組み合う」ように祈って、訴えたのだろう。
そのヤコブの真意に神が答えるかのように応対してくれた。
結果、ヤコブは相撲を取って打ち負かした。
神を相手に勝ったのだ。そしてエサウとの格闘に勝つきっかけになった
もちろん知恵を絞り、下手に出て「御主人様」と謙るテクニックもそうだが、何より必死になって取っ組み合いをするような「祈り」が、対エサウに直接勝ったきっかけになった。

翌日、大群衆のエサウ一行を目の前にして下手に対応するも、あんなに怨念を持っていたエサウから、もはやヤコブを殺そうとする殺意は消えていた。
前の晩、すでにヤコブが神に戦って勝っていたからだ。
・・・いや、戦うように神に必死になって拠り頼んだからだ。
 
このように絶体絶命と思える状況下だと、神と対等に向かい合い、時には無理なお願い事も真剣に、まるで土俵に上って取っ組み合いをすることもある。
エサウを目の前にしたヤコブの状況である。
 
格闘するように祈るといえば、イエシュア*1を思い出す。
イエシュアは弟子達と共にペサハ(過越)の食事*2を終えた後ゲッセマネへ行き、イエスはひどく恐れてもだえ始め、 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
(マルコによる福音書14:33-34)
 
そして一人になって祈り始めた。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
(マルコによる福音書14:36)
 
人となられたイエシュアも、まもなく通過する死を予感して”ひどく恐れてもだえ”、血の滲むような思いで、必死に主に祈った
これも見た目は違うけれど、ヤコブと同じく「取っ組み合いのような、必死の祈り」なのだったのであろう。
 
結果、イエシュアは「死」をも打ち勝ち、ご承知の通り「救い主キリスト」として、ユダヤ人のみならず全世界全ての人々の希望となったのだ。
 
メシアニックには24時間祈祷せよ、とかの教えはない。
シナゴーグでのユダヤ教の祈りのスタイルは割りとシンプルである。
ユダヤ人は、祈りの言葉数が多ければいいというわけではないと思ってる。
短時間でも、力強い思いがあれば、主は祈りを聞き入れてくださる。
 
どうしようもない苦境に立たされた時、相撲を取るが如く祈りの際に集中して、ポイントを絞り真摯になって祈ることが大事である。
勝つ秘訣はテクニックでも知識も大事だが、最後は神と対等に向かい合い、真剣になって祈り問いただすことが、勝利を得る。

*1:ナザレのイエス、即ちイエス・キリストを指す。イエシュアはイエスのヘブライ語読み。ヨシュアとも読む。

*2:過越祭初日にユダヤ人が行うセデルの食事を指す。この習慣がキリスト教会でパンとワインを頂く聖餐式のモデルとなる。