神と人との間で…オオカミのつぶやき

ユダヤの魂を持った、クリスチャン

ハイェー・サラ

今週の朗読

パラーシャー:創世記 23:1-25-18
ハフタラ:列王記 上 1:1-1:31
ブリットハダシャ:ローマ人への手紙11:1-11:36
 
今週のトーラーは日本語訳では「サラの生涯」
サラの生涯は127年であった(創世記23:1)という語りから始まっている。
 
アブラハムの妻であり、また同時に異母妹でもあったサラは、どんな人物であっただろうか。
 

アブラハムの妻サラ

「サラ」はヘブライ語で「女王」「高貴な女性」と言う意味がある。
当初、サラはサライと言う名前だったのだが、サライとは「私の女王」という意味だそうだ。
もしかしたらサラは生まれた時から美しく、他とは異なった気品を感じさせる子だったのかもしれない。
彼女が65歳になっても「非常に美しい」のでエジプトの高官たちがファラオに推薦するくらいなほどだ(創世記12:14-15)
 
サラの夫アブラハムもやはり、最初アブラムという名前であったのだが、やはり妻と同時に「アブラハム」を主から賜っている。
アブラムは「父は高められる」という意味なのだそうだが、改名後の「アブラハム」は「国民の父」という意味である。
 
名は実体を表わすと言われるように、古代メソポタミアにおいても人の名前に意味を込めて命名する習慣があった。
現代の日本は名前の「響きの良し悪し」で自分の子に名前をつけるという風潮があるが、本来、名前には親の子に対するメッセージ性が込められたものだ。
 
このように主から直接、親のつけた名前を変えて改名させられるということは、アブラハム夫妻は、主との約束を守り通すであろうと、主ご自身が確信したからであろう。
 
契約更新のためにアブラハムに現れた際にはこう仰せになっている。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」(創世記 17:1)
 
契約を交わす際の、主からの約束が「全きものとなる」ことである。
これは神を信頼することにおいて完全であれ、という神の要求なのだ。
 
確かにアブラハムも一介の人間なので、いろいろな思惑や計らいがあるであろう。
エジプト滞在中に安全対策で妻を妹と申告したり、子ができないという事で後継者対策としてハガルを妾にする事を承諾したりしている。
でも、この事は誰でも考えそうなことで、何もアブラハムだけがそうだというわけではない。
 
しかし、アブラハムの根底にあったものは、交換条件も利害も全く発生しそうもない事柄に対して「ただただ従い」、「素直なまでに真実を追い求める」気持ちだったと思う。
 
なので敢えて主は、アブラハム夫妻に現れ、御自身を名乗り、全き者になるよう諭しているのであろう。
 
こうして、今までの名前、言わば俗世間の名前(アブラム、サライ)ではなく、主から賜った名前(アブラハム、サラ)に更新させられた。
改名と同時に、今でもユダヤ教徒イスラム教徒が信仰者として証明する、割礼をすることを義務付けている。(創世記17:10-14)
 
これらの目に見える契約が、主の祝福を受ける徴となり、神の救いの計画の第一歩として世々語り告げられていく
 
さて、サラの死についてトーラーでは直接語っていないのだが、イサクが主の生贄として捧げられるためにモリヤの山へ出かけたと聞いて、ショックを受け亡くなったユダヤの伝承では語っている。
まさか生贄にならずに元気で帰ってくるとは思えなかったのか、命を持ちこたえることができなかったと伝承は伝えている。
まあ、世の母親なら、それを聞いてショックで気絶するだろうな...。
 
主に祝福され完璧の女サラも、彼女の素顔を覗いてみれば、どこにでもいる一人の母親だったわけだ。
 

 イサクの妻リベカ

イサクは主の祝福により誕生し、力強い両親のもと、大事に育てられた。
そのせいか内向的な性格で、しかも青年期~20代の多感な時期に母親を亡くし、その上モリヤ山で生贄にされかけた精神的傷痕もあり、より内向的になったのかもしれない。
そんな彼が、自ら積極的に結婚というアクションは起こせなかったのも当然かもしれない。
 
40歳にして独身・・・親心としては心配になったのではないのかと思う。
しかも、息子は神の祝福の後継者であり、その祝福は世々に伝承していかなければならない。
 
ただし何があっても「今すんでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように」(創世記24:3-4)
 
アブラハムは自らの故郷であるハランにいる、一族から娶ることを選んだ。
そこで召使であるエリエゼル*1をハランへ派遣し、息子を手元に残した。
 
結婚という人生の大事なイベントにおいて、父の選択は正しかったと思える。
もし息子が、今住んでいる土地(カナン)の住民から妻を娶ったなら、カナンの住民の道徳レベルをよく熟知していたので、イサクがそれに同化しまって、今まで苦闘と試練を通して培ってきた生活様式が一気に崩れ、すべてを失い、主の契約が台無しになってしまうのを悟ったのだろう。
 
さて、エリエゼルは息子の嫁探しという旅へ出発した。
 
今の感覚から考えると、嫁探しは「学歴」「家柄」「社会的地位」「美しさ」・・・いわゆる「目に見える事象」で判断する。
しかし、どんなに美しくても、どんなに学歴が高くても、的外れだったなんてよくあること。
「価値観の違い」での離婚、夫婦仲が悪くなって子供がぐれたりするような家庭崩壊は後を絶たない。
所詮、そんな選び方で必ずしも幸せになれない。
 
しかしエリエゼルは違った。ポイントは「形」では判断せず、思いやりがある娘か、どうか。
ただ、これだけだった。
エリエゼルは次のように主に祈っている。
 
「わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。」(創世記24:13-14)
 
さすがはエリエゼル、家の財産も管理するほど信頼されているだけはある。
見た目で、学歴で、先入観だけで判断して失敗する事を解っていたのだ。
 
エリエゼルの期待通り、リベカは合格した。
それどころか、期待以上の女性である。
彼女は、「どうぞ、お飲みください」と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませた。
 
サッと差出し、しかもらくだにも飲ませるために、井戸との間を何回か往復している。
たっぷりと水が入った水瓶は冷蔵庫ほどの重さがあっただろうに、それを持って、走って井戸と往復するなんて、大した腕力である。
よし、決めた!この娘だ。エリエゼルはそう思ったに違いない。
 
その後、リベカはカナンにいるイサクに嫁いだ。
そのときイサク40歳。
イサクはリベカを深く愛し、母に代わる慰めを得ている(創世記24:66)わけなのだから、何とも円満な生活だ。
 
そういう意味では嫁選び、大成功だったといえよう。
 
リベカは聡明で頭がよかった上に、 夫に尽くす、いわば「できる女」だった。
内向的なイサクを、いろいろ裏で尽くしている。
リベカのサポートによって、イサクの祝福は2倍に機能し、大きな収穫を得た
 
リベカが妻でなければ、アブラハムの祝福は継続が難しかったかもしれない。
それほどにリベカの果たした役割は大きい。

また、エリエゼルが外見や学歴を重視していたならば幸せになるどころか、妻に翻弄され、窮屈になってて、祝福を奪って勝手に利用しようとしていたのかもしれない…。

そういう意味では契約の後継者ではあるが、内向的でやや実行能力が欠けたイサクを、リベカが支え立派に家庭を切り盛りし、支えている。

イサク夫妻のように、夫婦とはお互いに理解し補い合って、徐々にお互いになくてはならない存在になっていくのである。

*1:ユダヤの伝承では「家の全財産を任せている年寄りの僕」(創世記24:2)と「ダマスコのエリエゼル」(創世記15:2)は同一人物とされている。「家の全財産を任せて」おり、「家を継ぐ」だけの信用を得ているからと解釈から。