神と人との間で…オオカミのつぶやき

ユダヤの魂を持った、クリスチャン

ベレシート

今週の朗読
パラーシャー:創世記 1:1-6:8
ハフタラ:イザヤ書42:5-43:10
ブリットハダシャ:ペテロの手紙Ⅱ 2:4-3:15
 

トーラー朗読のサイクルがスタートした。

トーラーとは旧約聖書の最初の5書、いわゆる
「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」を指し、「律法」または「モーセ5書」とも呼ばれる。
 

 

そして申命記まで読み終えたら、また創世記に戻る。
1年を1サイクルとし、この5書を1年間かけて、毎土曜日(安息日)ごとに読み上げる。
 
ただトーラーを1年で全部朗読するからには、1日大抵平均3章位を朗読することになるので、1回の朗読が結構長く感じるのだが。
 
以上、安息日ごとにシナゴーグの礼拝において読むトーラーの箇所をヘブライ語で「パラーシャー」という。
 
それと付随して、同じ旧約聖書内のトーラー以外
…いわゆる「ヨシュア記」以降「マラキ書」までの書簡も朗読している。
 
それらをヘブライ聖書では、預言書(ネイビーム)・諸書(ケトゥビーム)といい、
預言書もしくは諸書の朗読箇所は「ハフタラ」という。
 
ただ新約聖書ヘブライ語:「ブリットハダシャ」)はユダヤ教徒には無縁なので、当然読む習慣はない。
 
そして、我々はイェシュア(イエス・キリスト)をもメシアとして信じているので、新約聖書をも朗読する。
 
ただ、これはユダヤ教の朗読規定がないので、朗読箇所をどう決定しているのかというと…
 
…ここは牧師である手腕を活かし(笑)
トーラーやハフタラ朗読に応じ、そこから説教テーマを決め、朗読箇所を決定している。
 
さすがは、ホーリネス出身、ペンテコステ育ちだけはある。
 
私の出身の、カトリックも実は朗読箇所が毎週決定されてるので、ここまでのスキルはないのかもしれない(笑)
 
「創世記」
はじめに神は天地を創造された…で始まる、有名な聖句
 
この箇所は天地創造にはじまり、アダムとイヴ、カインとアベル、そしてノアの箱舟に至る人類社会の経緯が記されているので、
クリスチャンでない方でも知ってる箇所ではあるだろう。
 
毎年、年に一回は必ず巡ってくるわけで、
その度に先生の説教も違ってくる。
 
今年は「ネフィリム」に焦点をあてて話を展開していた。
 
ネフィリム」とは人間の女性と、天使との間の子とのことだそうで、
トーラーにはこう記されている。
「神の子らは人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした」(創世記6:2)
 
要は、神の子…神の使い、即ち天使と人間のハーフで、
ともすれば人間には持ち得ない、ずば抜けた能力や腕力を持っていたのではないか、とは容易に想像できる。
 
それにしてもネフィリムって、ゲームやアニメの素材になってそうな…(笑)
 
トーラーによると、アダムから続く人類は、堕落に堕落を重ねていたようだ。
 
とすれば、このネフィリム達は人間以上の能力があるが故、かなりの悪事を、生まれ持った能力と腕力で、人間以上のことをしでかしたのかと思ってしまう。
 
「主は言われた…"わたしはこれらを造ったことを後悔する"」(同6:7)
 
聖書全巻通して、哀れみ深い主が「後悔」したことは、この箇所にしかない。
となると、彼らの功績(いや、悪事)は相当で、かなり手こずったのだろう。
 
人間の悪事ならば、まだ救いようがある。
人間は蛇に唆されて知恵の実を食べてしまい、そこから「善悪を知るもの」となってしまった。
(そこは蛇の言うとおりにはなったのであろうが)
ただ、人間は誘惑者に会って堕落してしまったので、人間も悪に満ちたとはいえ、反面「善を追及する心」が残っているがゆえに、修復の余地がある。
 
ただし天使の悪事は、誘惑者なしに自ら堕落してしまった。
何より先生が説教中に指摘した
「人は救いの余地があるが、天使は救われない」
 
考えたらそうだ・・・
天使は元々、主に使える使いなわけだから。
でも誘惑者なしに堕落したので、罪は重いのであろう、堕天使というくらいだし。
 
しかし、天使と人間のハーフとならば、人間以上の知識と腕力、そしてずば抜けた予知能力をもっているであろう、いわば半ば「超人」。人間の人知では解決できるわけないし、きっとそれ以上の事象がおこったのであろうか。今ではさすがに知る由もないが。
 
神で以っても手に負えなかったって事か。
 
しかし、実際には人間と切っても切れない関わりを常に持ち、感情を表現できる神だからこそ、このような描写があり得ると思う。
神は哲学者でもなく、お伽話にでてくるような抽象的な存在でもないのである。
 
今はネフィリムはいないし、天使が俗世間に来て人間に子を・・・なんていうことはないし、現実的に有り得ないのだが、霊的にはまだまだ有り得るとのことだ。
 
「悪霊」となり人間の心に入り込んだり、もしくは俗世間にうよついたり。
聖霊」がいるのだから、悪霊(堕天使)がいるのもうなづける。
 
まれに人知を超えた、何かを予知する「見える力」、ずば抜けた能力を持っている人がいる。
「この場所は圧力が強くては入れない」とか「この人は青いオーラを持ってる」とか。
あるいはカリスマ性を持っている…他。
 
でも、それは悪霊(浮遊霊とか)をも見えるということなので、決して良い事とは限らない。
予知能力、ずば抜けた能力は善のみならず、悪にも強く作用するからだ。
余計なものは「見なくてもいいもの」だから、神は敢えてそれらは見えなくされたと。
 
先生はその人知を超えたカリスマ性と卓越した能力を持った人として 、大本教の出口 王仁三郎を例に出していた。
まあ、大本教祖とまではいかなくても、私の知り合いで「見える」人、「霊感のある」人が何人かいる。共通していることは、彼らが普段聴いてる曲が、どうも霊的には落ち着かない曲を好む傾向にあるように思えた。
センスというのか信仰と、その能力は別ということか。
 
そういう事が重なり、そこであの、ノアの洪水に発展するわけです。
以下は次回の朗読に続く・・・。