神と人との間で…オオカミのつぶやき

ユダヤの魂を持った、クリスチャン

メシアニック・シャバット

私は毎週土曜日、とある礼拝に参加しています。
それは「メシアニック親交会」というメシアニック・ジューの集会です。


さて、メシアニック・ジューって知っていますか?
英語表記では「Messiahnic Jewish」です。

彼らはユダヤ教徒ですが、イエスをメシア(ヘブライ語で救世主)だと信じている人々のことです。
ユダヤ教内では「ユダヤ教ナザレ派」という呼ばれ方もします。

従来のユダヤ教徒は、いつの日かメシアが来て、ユダヤ民族が救われることを信じています。
ナザレのイエスヘブライ語ヨシュア、イエシュア)すなわちイエス・キリストではありません。他の人です。
ユダヤ人にとってナザレのイエスは一介の人間「ラビ・イエシュア」にしか過ぎないのです。
なので、まだメシアは到来していないわけです。

メシア(キリスト)をナザレのイエスだと信じている人々はキリスト教徒です。

要はナザレのヨシュアを、一介のラビと見なすか、神に遣わされたメシア「キリスト」と見なすか。
違いはただそれだけ

しかしイエスの死後、彼の教えはユダヤ人共同体を離れ、主に当時のローマ帝国へ伝わりました。
後には帝国の国教と認可され、そこから正教会だのカトリック(後にはプロテスタントが分離)へ分かれていくことになりますが、東方正教にせよ、カトリックプロテスタントにせよ、多かれ少なかれローマ文化、ヘレニズム文化、ゲルマンやケルト、スラブ等周辺民族の文化の影響を受けてしまい、いまや別の宗教となってしまいました。
私達クリスチャンはユダヤ教の戒律教義は守ってないし、概念も解釈も違います。
特に安息日に関していえば知っての通り、クリスチャンは日曜日(※1)、ユダヤ教徒は土曜日を安息日とします。
ユダヤ人は土曜日のことを神聖視し「シャバット」と呼んで区別してます。

(※1)旧教会系は本来の「安息日」とは区別するために「主日」と呼んでいますが、実質は安息日のような扱いとなっています。

メシアニック・ジューというのは、ユダヤ教の祭りや生活を守りながら、イエスを信じている人々。
ユダヤ教キリスト教の間と言えばわかりやすいでしょう。

ここ10年で日本の地にも定着してきました。
日本のメシアニックジューは、アメリカから経由してきており、主にプロテスタントの一派、ペンテコステ派聖霊派の牧師や信徒たちが担い手となっているようです。
その為だろうか、どちらかというと賛美や聖書朗読、牧師の説教が大きな流れとなっており、そこに時々ヘブライ語の祈祷を行ったり、賛美歌を歌ったり…そのような式次第で進められます。
はじめ参加したのは僕が約10年前にローマ・カトリックで洗礼を受けた翌年でした。
地元でのとあるメシアニック集会でした。
ペンテコステ派の集会と同じだったなって印象でしたね。
例えば、祈祷の際に手を挙げたり。

その集会では、自分がカトリックだっていうこともあり拒絶されてしまい、改めてカトリックプロテスタントの見えない溝を感じた瞬間でもありました…。

当時、新クリスチャン一年生であった僕はかなり大きなショックでした。

今ではプロテスタント信徒の友人もいっぱいいますけどね(笑)
純だったんですね…(^_^;)

なぜ、僕がそこの礼拝に参加するようになったかというと…もともと超教派で出会った友人の紹介だったのですが、式次第がユダヤ教のそれに極めて近く、パンとワインの祝福が毎週必ずあるってこと。
まあ、式で使うワインは葡萄ジュースだったりします(笑)
ジュースを使用する辺りはプロテスタントの影響だったりします。

しかし、パンとワインの祝福が聖餐式と重なり、カトリックの自分にも受け入れやすかったんでしょう。

そもそも聖餐式の由来自体、大地の恵みということでパンとワインを祝福した、ユダヤ教のシャバットに起源があるように思えてきます。

まあ、聖書を読んで、理解して、話し聞くのなら、自宅にいながらでもできますからね。
それよりも一番は何より、牧師先生の考え方と信仰そして人柄に惹かれたのです。
僕が参加しているメシアニックの牧師は元々ホーリネス系出身で、ペンテコステ派の一派アッセンブリー教団に属していた先生です。
毎週、遥々仙台から来てくださって式を執り行ってくださいます。
そのエネルギー、スゴイなってつくづく感心。

さすがに今回の大地震の時には3週間ほど東京へはこれませんでしたが、それでも我々だけでシャバット執り行ったんですが、パンと葡萄酒の祝福がなかったんで、淋しかったですね…。(笑)

先生の住んでる仙台は、今回の大震災でかなりの精神的打撃を受けただろう、と心配で不安でだったのですが無事との知らせを受け、安心しました。

思うのは、今後は
ユダヤ教キリスト教もお互い、解り合うことが大事
そのような気がします。

同じ背景を持ちながら、お互いそれぞれ「神の真理」を2000年間も保持してきてるんですから。

トーラーの真理を保持してきたユダヤ教
イエスをメシアである真理を保持してきたキリスト教
もっと細かく言えば…
正教会は祭儀の伝統を
カトリックは命と暦の大切さを
プロテスタントは信仰の純粋さと聖書解釈を
それぞれ保持してきたのではないのだろうか、と僕は思うわけです。

同じ主にあって、解り合っていける事を祈ります…。

アーメン。