今週のパラシャ
トーラー:出エジプト記18:1-20:26
ハフタラ:イザヤ6:1-7:6、9:5-6
ブリットハダシャ:ヤコブ2:8-13、Iペテロ2:9-10
家族から国家へ
モーセたち一行は紅海を渡ったあともシナイ半島を進み、やがてシナイ山の麓のミディアンの地に到着し、そこに住んでいる祭司イェトロと、そして妻ツィポラと2人の息子たちと再会する(出エジプト18:2~7)
イェトロはモーセの妻ツィポラの父、即ちモーセの義父に当たる。いわばモーセの家族でもある。
ところでモーセの家族についてだが、かつてモーセがミディアンからエジプトへ戻るとき、彼の妻のツィポラと2人の息子、ゲルショムとエリエゼルも一緒にエジプトへ連れて行った。その際、ツィポラは息子たちに割礼を施している(出エジプト4:20~26)。
その後、妻子は登場してこなかったが、今回のパラシャで、エジプトへ帰路時に、あるいはイスラエルの民全体が出エジプトする前に、先にミディアンに妻子たちを帰していたことがわかる。
ここで一つ、気づくことがある。
これまでのトーラーは、主なる神との関係において、主に家族単位で物語が展開していた。
ところがモーセの家族のことについては、4:26以降、具体的には記してはいない。どちらかというと、民族としてのイスラエルという中において、どのような立場で行動しているかが主に記されている。
なので聖書を拝読している我々は、指導者としてのモーセはよく知っているが、家族の前でのモーセの姿はよくわからない。
創世記で顕著だった、個人的な物語や、家族中心に繰り広げられるホームドラマのような展開ではなくなっているのだ。
モーセの息子ゲルショムとエリエゼルは約束の地に入る特権を得たとミドラッシュは語っているが、トーラーにはその記述はない。
このように「イスラエル」が家族から民族となり、ここから物語も国や社会といった枠で話が進んでいくようになる。
これはずっと前から主が、アブラハムより脈々と先祖たちに語られた通りとなった。
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。」(創世記15:13-14)
神は(ヤコブに)言われた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。」(創世記46:3-4)
謙虚に、柔軟に聞くことの重要さ
イスラエルが家族から国単位に変化しているということは、民1人1人の相談を受けて裁いているということからも読み取れる(出エジプト18:13-16)。
「民1人1人の相談を受けて」とさらっと言っているが、これは結構な労力を使う仕事である。
家族単位の集団であれば、相談に乗ってもそこまで負担はかからない。しかし、これば国単位であれば、モーセ一人で民全体の相談に1人ずつ相手することになる。モーセ自身相談対応だけで一日終わるし、下手したらプレッシャーもかかり体調を崩すかもしれない。また相談を依頼する側からしても数時間、いや数日待たされると痺れを切らしかねない、ということは容易に想像できる。
私も仕事柄、多くの顧客の相談を受けることがあるが、1つの案件に対して真剣に取り組むと、相談内容にもよるが、案件が多かったり重ければ1日中かかることも普通にあるのだ。そうなると自ずと、他の有能な社員に相談業務の一部を分担しちゃえばいい、と考える。
やはりというべきか、その光景を見かねたイェトロは、分担すればいいとの案をモーセに提案したのだ。
「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。」(出エジプト18:17-18)
そして次の方法を提案する。
信頼に値する人物を民の中から数人選び、小さい案件の相談を任せる。10人単位の隊長へまず相談をし、解決しなければ50人隊長、100人隊長、1000人隊長と引継ぎ、それでも難易度が高い案件の時だけ、モーセのところへ上告する、という方法だ。
イメージとしては、裁判制度を想像いただければ解りやすいかもしれない。モーセは最高裁の役割を担うというわけだ。
イェトロのこの助言を、モーセは素直に受け入れ、これを実行する(出エジプト18:24-26)。
このようにモーセ舅イェトロは、モーセにとって良き理解者であり、助言者であったのだ。イェトロはモーセの人柄を高く評価していたのだろう。
イェトロから見たモーセの言動は、モーセの謙虚さからくる度を越えた正義感からか、人々はそれに甘えて大いに利用し、呼ばれたらいつでもどこへでも出かけ、自らの労を惜しまない言動が、行政上の混乱へと導いているように感じ取ったので、これが続くときっと耐え難いものになるかもしれないと危機感を抱いて助言したのかもしれない。
モーセの身内であるが、イスラエルの民の一員ではない第3者の目線だからこそ、モーセの心身を案じ、客観的に判断できたと思われるのだ。
業務を分担したとはいえ民の相談に1つづつ対応したり、舅の助言を素直に受け入れすぐに実行するあたり、やはりモーセは主の前に謙虚な人だったといえる。
トーラーに記されている難しい問題が起こった時も、主により頼んでいる。
そこには見栄も虚栄心もないし、自分の考えに固着もしていない。
主の仰せになることを忠実に受け入れ、かつ有益な助言や考えがあれば、耳を傾け、それを素直に受け入れる。
自分の意見に固着するあまり、正しい知識や他に有益な意見があっても受け入れないことは、本来の信仰を見失いかねることにもつながる。
例えばある牧師が「大航海時代、スペイン、ポルトガル、イスパニア*1の商人が活躍していた」ととある記事に投稿する際、周りが間違えを正しても決して、頑として認めないようなもの同じなのである。その記事が世に出たとき、陰で笑われるのは火を見るより明らかだ。
周りの助言に聞き従うということは、ひいては主の御前に素直であることを表している。まさにモーセはそのような資質を持っていたのである。
しかし、自分の虚栄心や一度固着した考えというのは、長い人生において経験も相まって培われていうので、なかなか捨てるのは難しいかもしれない。
しかし、時には周りの助言に耳を傾けて、それが有益であると判断すれば、素直に聞き入れ実行することも大事なのではなかろうか。
人は誰からであっても、何か1つは学ぶことがあるのだ。
イエシュアもこう仰せになっている。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(マタイ23:12、ルカ14:11)
モーセのように人々から慕われているリーダーと呼ばれる者が、一番遜っている。このような姿勢は主は歓迎してくださる。その姿勢こそが、偏見なく物事を受けいれるし、時には今までの価値観をかなぐり捨てて受け入れることもあるだろう。
今回は長文となってしまったので、十戒については次回のパラシャの記事でまとめることにする。